家族の形が変わってから、私は子どものことを以前より注意深く見るようになった。
ぐずると、「環境の変化が関係しているのだろうか」と考える。夜中に私を呼ぶと、「何か不安を感じているのだろうか」と考える。
その一方で、楽しそうに遊び、新しい言葉を覚え、いつもと変わらず過ごしている姿を見ると、少し安心する自分がいた。
ある日、園で最近の子どもの様子について話していたとき、家庭環境の変化も関係している可能性があるので、家ではどんな様子かと聞かれた。
家での様子を一つずつ話した。少なくとも、私が恐れていたような形で、環境の変化が強く表れているようには感じなかった。
安心したはずだった。
なのに、そのあと一人になった途端、涙が出た。
悲しいのか。
申し訳ないのか。
悔しいのか。
自分でも、よく分からなかった。
そんなとき、ある人からかけてもらった言葉を思い出した。
涙が出るほどいろいろな思いがあることを、否定しなくてもいいのかもしれない。
そう思ったら、無理にひとつの感情に名前をつけなくてもいい気がした。
子どもへの申し訳なさもある。
思い描いていた家族の形にならなかったことへの怒りもある。
この家族の形を選んだ責任もある。
それでも、いつか「これでよかった」と思える人生にしたいという気持ちもある。
たぶん、全部だった。
子どもは選んでいない
そして、泣きながら気づいた。
私はずっと、この選択を「正解にしなければ」と思っていたのかもしれない。
この家族の形を選んだのは、大人である私だった。子どもは選んでいない。
だから、この選択によって子どもに何か悪い影響が出ていないか、ずっと気になっていた。
でも、考えてみれば、以前の家族の形を維持することを選んだとしても、それを決めるのも大人だった。
子どもには、どちらも選べない。
「子どものために、両親が揃っていたほうがいい」
そう言われることがある。
でも、それはいつでも本当なのだろうか。
家族は、同じ場所で暮らし続けていれば、それだけで「機能している」と言えるのだろうか。
その形を維持することで、誰かが傷ついたり、自分自身を失っていったりすることもある。
一方で、家族の形を変えれば、それによって失われるものもある。
どちらにも、子どもが経験するものがある。
「親が幸せなら、子どもも幸せ」なのか
「親が幸せであることは、子どものためになる」という言葉もよく聞く。
私は、この言葉にも少し慎重でいたいと思う。
それを理由にすれば、大人の選択を何でも「子どものためだった」と正当化できてしまう気がするからだ。
でも一方で、この言葉に救われることもあるのだと思う。
「自分が幸せになることも、子どものためになるかもしれない」
そう思うことで、自分の人生を選ぶことへの罪悪感を少し手放し、穏やかに子どもと向き合えるのなら、その考え方には意味がある。
そして、もうひとつ。
親が自分の人生を大切にし、生き生きと過ごしている姿を見せることも、子どもにとって何かプラスになるのではないかと思う。
いちばん身近な大人が、自分の人生を楽しみ、自分なりの幸せをつくっていく。
そんな姿を見ることが、子ども自身にとっても、「自分も幸せに生きていい」という未来のイメージにつながるのかもしれない。
もちろん、それは「親が幸せなら、子どもも幸せになる」という単純な因果関係ではない。
親の幸せを、子どもの幸せの証明にすることもできない。
それでも、親自身が自分の幸福をずっと犠牲にし続けることが、本当に子どものためになるとも思えない。
親の人生と、子どもの人生。
どちらか一方を犠牲にしなければ成立しない家族を、「幸せな家族」と呼べるのだろうか。
子どもを、答え合わせにしない
そして私は、もうひとつ気づいた。
私はいつから、子どもの一つひとつの姿を、自分の選択の答え合わせにするようになったのだろう。
泣かなかった。
楽しそうだった。
よく眠った。
新しいことができるようになった。
だから、大丈夫。
だから、私の選択は間違っていなかった。
反対に、ぐずった。
夜中に起きた。
いつもと違う様子だった。
だから、やっぱり私の選択がこの子を傷つけたのではないか。
そうやって見ていたら、目の前にいる子どもではなく、私が欲しい「答え」を探すことになってしまう。
子どもを観察することと、子どもの中に、自分が欲しい答えを探すことは、たぶん、同じではない。
子どもが笑っていることは、私の選択が正しかった証明ではない。
子どもが泣いていることも、私の選択が間違っていた証明ではない。
子どもは、私の人生の答え合わせをするために生きているわけではない。
この選択が正しかったのかは、まだ分からない。たぶん、今すぐ答えが出る問いでもない。
ただ、子どもの人生を、「私の選択が正しかったことの証明」にはしたくないと思う。
子どもの人生は、子どものものだ。
私の人生も、私のものだ。
その二つが、どちらも誰かの犠牲の上に成り立たない家族とは、どんなものなのだろう。
今はまだ、その問いを持ちながら、目の前にいる子どもを見ていたい。
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