名前のない結果が、いちばん確かな育ちだった

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結果を探してしまう気持ち

子育てをしていると、
つい「これは何につながったんだろう?」と結果を探してしまう。

言葉が増えたか、
できることが増えたか、
前より上手になったか。

何か名前をつけられる変化があると、少し安心する。

でも最近、
「結果が見えない時間」のほうが、
あとから振り返ると一番確かだった、
と思うことが増えてきた。

その場では、何も起きていないように見えた

その日は、特別な出来事はなかった。

新しいおもちゃもない。
教えたこともない。
上手にできた瞬間もない。

ただ、
見て、
触って、
やってみて、
やめて、
また戻ってくる。

大人から見ると
「何をしているのかよくわからない時間」。

その場では、
成果も、成長も、説明もできなかった。

あとから、違う形で現れた

数日後、
別の場面でふと気づいた。

「あれ? 前と反応が違う」
「こういう関わり方、前はしていなかった」

あのときは何も起きていないように見えた時間が、
まったく別の形で、あとから現れていた

直接つながっていないように見えるのに、
確かに、どこかで線になっている。

その線には、
名前がつけられない。

「〇〇ができるようになった」
「△△を理解した」
そういう言葉には、うまく収まらない。

名前をつけなかったから、残ったもの

もしあの時間に、
「これは〇〇の練習だ」
「次はこうしよう」
と意味づけしていたら、

もしかしたら、
この育ちは残らなかったかもしれない。

評価もしない。
誘導もしない。
まとめもしない。

ただ、
その時間がそのまま過ぎていったからこそ、
あとから自然に現れた。

名前をつけなかった結果だった。

見えないまま、育っていくもの

育ちは、
いつもわかりやすい形で現れるわけじゃない。

その場では見えず、
説明もできず、
記録にも残しにくい。

でも、
「何もなかった時間」を重ねた先で、
ふとした瞬間に、ちゃんと姿を見せる。

名前はないけれど、
確かに、そこにある。

私は最近、
その「名前のない結果」を
一番信頼している。

𓅯𓂃𓈒𓏸

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この記事を書いた人

0歳からの探究育児。観察・対話・ことば・環境づくりを通して“育ち”を見る視点を発信しています。Inquire from Zero 主宰。

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